恋なんてするつもりじゃなかった


 朝からパソコンの画面とにらめっこ。

 終わりそうも無い。

 明日の朝一番の会議で配る資料なのに。


「ふぅー……」


 何度目か解らない大きな溜め息を吐いた。

 気分転換しようにも、其の術が見つからない。

 とりあえず、大きく背伸びをして、そのまま右手が煙草へと向かう。

 蓋を開けて気が付いた。


「もう最後?」


 無意識に吸ってたんだろうな…。

 灰皿がいっぱいになっていた。

 それでも躊躇わず、其の最後の一本をくわえる。

 火をつけて、吸い込んで。


「ふぅー……」


 溜め息と一緒に吐く。

 椅子の背もたれに思い切り寄りかかったら、ぎぎぎ、と抗議の音を出された。

 ふわりとしたメンソールが落ち着きをもたらす。

 至福の時。


「…ベヴェル、フレア。」


 其の煙草の銘柄を口にすると、つい一月程前の記憶が甦る仕組みになっている。

 目を閉じて、その日を思い出す。


 


 …暑い。

 物凄く暑い。

 日差しが、痛い。

 其の日は丁度、午後出社の日で。

 家でゆったり、心ゆくまで睡眠を取れたのは良かったものの。

 午後の日差しがこんなに暑いなんて知らなかった。

 いつも、会社のビルの中、クーラーがガンガンに効いた中で仕事をしているから。

 この殺人光線に焼かれるのと、人工的に作り出した必要以上の冷気。

 どちらが体に悪いのかなんて、考えても答えの出る筈が無い疑問を、頭の中で転がしてた。

 あたしの横を、風が通り過ぎるまで。


「待って!」


 声と共に、あたしの横を通り抜けた風は、バスを追いかけている途中で。

 100メートル程先で停車中だったバスは、ドアを閉めて発車しようとしている所だった。

 その時。

 ぽとり、と何かがあたしの行く手に落ちた。


 …あ。


「落としたよ!」


 拾い上げて、手を振った。

 其れは、定期入れだった。

 あたしの横を通り抜けた風―――緑のTシャツ、くたびれたジーンズ、サンダル、という様相の大学生風の男―――は、振り向いた。

 あ、という顔をする。


 プシューッ。


「あ!」

 あたしは指を差す。


「あああああああ……」


 大学生風の男は、その場にしゃがみこむ。


「畜生、間に合わねー……」


 本気で、悔しそうに言うものだから。

 あたしは、申し訳ない気持ちになる。


「ごめんなさい、あたしが呼び止めなかったら間に合ってたでしょう?」

「あ、いや、良いっすよ。どうせ、それなかったら降りる時困るもん」


 大学生風の男は、定期入れを指差す。


「財布、金入ってないんだ。其れが無いと、無賃乗車になるから」


 あたしは、黙って定期入れを手渡す。

 男は受け取り、立ち上がる。

 思った以上に背が高かった。

 185センチって所だろうか。


「ほんと、ありがとうございました!…って、あああっ!?」


 男がいきなり大きな声をあげてあたしを指差す。

 なに? なに? なに?

 あたしはびっくりして、まばたきを必要以上に繰り返す。


「ベヴェルフレアのお姉さんでしょ!?」


 これが、彼とあたしの始まりだ。


 


 回想が終わり、目を開けて、煙草の火を揉み消す。

 もうひとつ、大きな伸びをする。

 さぁ、仕事の続きをしなくては。

 本当に仕上がらなくなってしまう。


 PCに向かいながらも、回想が尾を引いている。


 なんてことは無い、彼はあたしのアパートのすぐ近くにあるコンビニの店員で。

 あたしはいつも煙草とチョコレートしか買って行かないので(たまに雑誌も)、顔を覚えていたそうだ。

 そういえば、最近、銘柄を言わずとも、煙草が出てくる事もあった気がする。

 そういうことか。

 彼はあたしを覚えていたみたいだけれど、あたしは何も気にしていなかった。

 其の事を、何故か勿体無く思った。


 其の日は、次のバスが来るまで、他愛無く喋った。

 あたしが乗るバスが先に来た。

 じゃ、また。

 コンビニで。

 そう言って別れた。


 そんな感じ。

 それ以来、あたしが店に入ると、彼は意味ありげにニタリと笑ってくれる。


 背が高かった。

 健康的に焼けていた。

 笑顔に裏が無さそうだった。

 あたしを、覚えてくれていた。


 何かが特別だったわけじゃない。

 胸を打ちぬかれたわけでもない。


 何故か気になる。

 どうしてか、気になる。


 仕事は忙しい、遊ぶ暇も無い。

 稼いだお金を使う時間も無ければ、たいした趣味も持っていない。

 このまま、枯れちゃうか。

 自分が女である事すら忘れかけてた。

 面倒な事に首を突っ込むのはごめんだった。

 甘い感情なんて、思春期の特権だと思ってた。

 とうの昔に、思い出の中に置いてきたと思ってた。

 仕事は、自分を騙す為の格好の言い訳でしかなかった。


 全ては自分次第。


 このページまで、資料を仕上げたら。

 無くなった煙草、買いに行かなきゃ。

 17時からが、彼のシフトだ。


 恋なんてするつもりじゃなかった。

 でも。

 滞ってた何かを動かす為のエッセンスに出来るのならば。

 其れは其れで。

 良いんじゃない?


 スマイル、スマイル。