「夏海ーっ!」


 住宅街の外れ、ひっそりと佇む昔ながらの一軒家。

 其の二階の窓に向かって、叫ぶ。


「なーつーみーっ! おいてくからな!」

「待って、カンちゃん、待って!」


 慌てて懇願する夏海の声が、玄関先から聞こえた。

 俺は、ゆっくり歩き出す。


「はぁーっ。もう、せっかちなんだからっ。」


 むくれ顔で追いついてきた夏海が、隣に並んだ。


「おまえ、とろすぎる」

「カンちゃんは意地悪すぎる」

「亮太が待ちくたびれるぞ」

「リョウちゃんは待ってくれてたもん、優しいしー、穏やかだしー…」


 あ、ダメだ。

 ノロケが始まった。

 話題を変えようと、太陽を見上げる。


「しっかし、暑いなー」

「そうだねー…あの日は、寒かった気がするけど」

「そうか? 思いっきり夏だったぜ。気分的なもんだろ。夜だったし。」

「そっか……記憶も曖昧だぁ…。もう二年になっちゃうんだもんね。」

「……あぁ」


 空気が、重くなる。


 亮太は、俺の小学生時代からの親友で。

 夏海は、高校生になった時に亮太に初めて出来た彼女だった。

 よく、三人で遊びに行った。

 俺にも、彼女が居る時期が、何度かあったけど。

 全員において、一回ずつしか、二人の所には連れて行ってなかった。

 何だか違って、馴染めなくて。

 三人の関係は、それほどに強固だった。

 其れが、心地よくもあったし、永遠を錯覚させる原因でもあった。


 亮太は、高3の夏休みに入る前の週の土曜日、この世を旅立った。

 夕方、バイクで夏海の家に向かう途中だった。

 右折しようとして、信号無視の乗用車と衝突。

 病院に運ばれたが、意識不明の重体。

 そのまま、息を引き取った。

 学校は、事故を隠したがった。

 バイクの免許を取ることは、禁止されていたからだ。


「カンちゃんっ、砂浜まで競争!」


 重たい空気を察知したのか、夏海が急に走り出して、はしゃいだ。

 そんなもん、俺の方が早いに決まってるのに。


「ほーらっ、おいてっちゃうんだから!」

「馬鹿だな、お前。のろまの夏海に俺が負けるわけ無いだろうが」


 逃げる夏海を追いかけ、追い越した。

 もっと走れるけど。

 夏海が追いつくか追いつかないかの距離を保った。

 砂浜に着いた頃、二人とも息が上がっていた。


「…はぁーっ。もうちょっとだったのになー。」

「無理だな。俺はもっと逃げられる。」

「かっこつけちゃって! すっごいハァハァ言ってるよー?」

「こんなの、すぐに落ち着くんだよ」


 夏海の頭、ぐしゃぐしゃと撫でた。

 せっかくセットしてきたのに!…なんて言いながら逃げられた。

 思い切り、笑った。


 ひとしきり笑って、息も落ち着いて。

 持ってきた小さなクーラーバックから、缶ビールを取り出す。

 1本を夏海に手渡し、1本は自分に。

 そして、二人の真ん中に1本置いた。

 亮太の分だ。


 プシュッ…と、喉の渇きを刺激する音が響く。


「じゃ、乾杯」

「何に乾杯か、ちゃんと言おうよ」

「…俺たちの未来に?」

「バカ」


 一瞬の、間。

 俺たちが共有する、痛み。


「亮太の、二十歳の誕生日に、乾杯!」

「乾杯!」


 ごくごくごく…と、一気に飲み干した。


「ぷはーっ」

「カンちゃん、オヤジだぁっ」

「亮太も今頃、空の上で言ってるぜ、ぷはーって。」

「目に浮かぶ」


 目を細めて、夏海が笑う。

 本当に、空の向こうに亮太が見えているかのように。

 痛々しくて、目をそむけてしまう。

 俺は、弱い。


 夏海の家に向かう途中で、この世を去った亮太。

 ウエストポーチの中に、綺麗に包装されたらしい指輪が入っていた。

 事故の衝撃で、それは潰れてしまっていたけれど。

 明らかに、夏海へのプレゼントだった事は誰が見ても解った。

 其の日は、夏海の誕生日だったからだ。

 いつものように、三人で遊んで、誕生日を祝った後の出来事。

 一度、家に帰ってから、夏海の家に向かっていた。

 亮太としては、かっこつけたかったのだろう。

 三人の中で渡すんじゃなく。

 恋人として、誕生日を祝いたい気持ちが、そうさせたのだろう。

 きっと、何日も前から、其の計画を練っていたに違いない。

 柄にもなく、緊張しながら、夏海の家までの道のりを走ったのだろう。


 俺が、誕生日会を遠慮していたら。

 折角だから二人で過ごせよ、なんて言っていたら。

 今頃、此処で亮太もビールを飲んでいたのかもしれない。


 後悔は、いくらしても足りない。

 夏海にしたって、そうだろう。

 でも、此処に亮太は居ない。

 変えられない事実だ。


 其の時、夏海が突然立ち上がって、波打ち際まで走っていった。


「おい! どうしたんだよ、缶ビール1本で酔っ払ったか?」


 サンダルを脱ぎ捨て、ばしゃばしゃと海の中に入っていく夏海。

 両手で水をすくい上げては、空に放つという動作を繰り返していた。


「とうとうおかしくなったか?」


 笑いながら、近づいていった。


「…来ないで!」


 俺は、動けなくなる。


「空まで届いたら、リョウちゃんも水浴びできるから…」


 其の声は、明らかに涙声だった。

 言葉をなくしてしまう。

 なぁ、亮太、お前だったらこんな時、何を言ってあげる?


「とどけっ! とどけっ!!」

「…亮太に届く前に、お前が水浸しじゃねーの?」

「ほらっ、カンちゃんも!」


 そう言われて、夏海に指鉄砲で水をかけた。


「ぶはっ。なにそれっ、カンちゃん卑怯!! うわぁん、しょっぱいよ!」

「当たり前だろ、海水なんだから」

「びしょびしょだよー」

「それは、俺がかける前からそうでした」


 夏海は、顔にかかった海水をぬぐっていた。

 俺に涙が見せられないなら、せめて、見ない振りをしてあげたいと思った。

 なぁ、亮太、俺にしちゃ、上手い事やれたと思わねぇ?


「帰ろうか」

「……うん」

「酔いがまわるから、かけっこは無しな。」

「そうだね」


 帰り道のコンビニで、アイスクリーム買おうか?

 あの頃いつも、三人でしたように。

 違う味のを買って。

 交換しながら食べようか。